昭和5年ごろ(1930年)日本の学校教育では「みんな大きくなったら楠木正成のようになれ」と教えられました。この楠木正成を主人公のひとりとして描かれたのが「太平記」(たいへいき)です。日本がロシアと戦い、アメリカと戦って負けるまでのあいだ、日本人にとって第一の国民的英雄は楠木正成でした。そして太平記は第二次世界大戦後、日本人に忘れ去られてしまった不幸な古典なのです。
後醍醐天皇 (ごだいごてんのう)
当時の天皇は第96代の後醍醐天皇でしたが、世の中を実際に支配していたのは武士たちであり、後醍醐天皇に実権はありませんでした。思えば第82代の天皇であった後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は武士に戦いを挑みましたが、敗れ島流しにされて、ついには島で崩御されたのでした。後醍醐天皇には、武士たちを滅ぼして亡き後鳥羽天皇の恨みを晴らそうという思いもあったのです。ちょうどこの時代、鎌倉幕府は北条高時(ほうじょうたかとき)の時代であり、北条高時は田楽(芝居・芸能)や、闘犬遊びにふけるなど、政治や国家をかえりみることがなく、後醍醐天皇にとって謀叛を起こすチャンスが到来したのでした。
後醍醐天皇 VS 鎌倉幕府・北条高時
後醍醐天皇は「王子懐妊のため」として僧侶たちを集め祈祷を行ないましたが、実はそれは武士たちを滅ぼすための呪術儀式だったのです。また後醍醐天皇には妃が10人おり、子どもを36人つくったと言われています。これらの王子たちは武士たちと戦うための軍事的な目的で九州・東北などに派遣されたり、比叡山延暦寺のトップの地位にすえられたりして、寺社組織という軍事力を天皇側へ取り込むための人材としても活用されているのです。
夢告 (むこく)
後醍醐天皇はある日、大木の根元にしつらえられた南に向いた玉座の光景を夢に見た。木に南と書けば楠と読める。これは神託に間違いないと楠の名を持つ武士を呼び寄せた。後醍醐天皇の元に参上した楠木正成は、後醍醐天皇にこのように申し上げた「合戦はときには勝ち、ときには敗れるものでございますから、一度や二度の勝負でご判断なさいませぬよう。この正成が生きております限り、帝の御運は必ず最後には開ける、と思召して下さいませ」
後醍醐天皇 VS 鎌倉幕府・北条高時
楠木正成 足利尊氏
後醍醐天皇にお味方した楠木正成の軍は、少数ながら敵に偽装するなどのゲリラ戦術を駆使して、鎌倉幕府軍を大いにてこずらせました。これにあせった鎌倉幕府が鎌倉から京都の後醍醐天皇側を制圧に向かわせたのが足利尊氏(あしかがたかうじ)でした。
足利尊氏 (あしかがたかうじ)
しかし当時の武士は日和見(ひよりみ)主義で、風向きが変わればコロコロと仕える主人を変えたため、敵味方が入れ代わる事など日常茶飯事でした。足利尊氏が京都に到着すると、足利尊氏は後醍醐天皇側へ寝返ってしまいます。このタイミングで足利尊氏と申し合わせていた新田義貞(にったよしさだ)が軍を率いて、群馬県から南下して鎌倉幕府の拠点鎌倉を攻めます。日本の首都が神奈川県だった鎌倉時代も130年を経て終わろうとしていました。
いよいよ鎌倉が敵に攻め滅ぼされるとなったとき、長崎高重(ながさきたかしげ)は「切腹の手本を見せる!」と言って腹を切り、自らはらわたをつかみ出し「これを酒の肴にせよ!」と言い残して果てました。一族の者も「みごとな肴よ、どんな下戸であろうとも、飲まぬわけにはゆくまい!」といって次々に自害し、東勝寺(鎌倉市)において北条家の一族ら870人あまりがこの時一斉に自害し、血があふれて大地に満ちたと太平記は記しています。(1333年5月)(太平記巻十)武士は敵の首をかききって自らの手柄の証拠とするのですが、おめおめと敵に首をかかれるのは恥辱ですから、もはやこれまでと覚ったならば、自ら死ぬるという決断をするというわけです。最後には抵抗の死を見せるのです。
後醍醐天皇 VS 鎌倉幕府・北条高時(滅亡)
楠木正成 長崎高重(自害)
足利尊氏
新田義貞
足利尊氏も新田義貞も元は鎌倉幕府側の人間なのですが、最大の軍事力を持つ足利尊氏の裏切りをきっかけにして、日本全国が乱れ、130年続いた鎌倉幕府もわずか43日間で滅びてしまったのです。
護良親王の死 (もりよししんのうのし)
足利尊氏を味方に得て、鎌倉幕府を倒し念願の実権を手に入れた後醍醐天皇は、足利尊氏の活躍を特に評価され、後醍醐天皇の本名、尊治親王(たかはるしんのう)から「尊」の字を足利尊氏に与えその活躍を称賛しました。足利尊氏は元は「足利高氏」と言いました。しかし足利尊氏は裏では自分自身と対立する後醍醐天皇の王子、護良親王(もりよししんのう)をひそかに殺害しており、そんな重要な人物の死が隠しおおせるはずもなく、今度は後醍醐天皇VS足利尊氏の戦いへと展開するのです。
後醍醐天皇 VS 足利尊氏
楠木正成
新田義貞
七生報国 (しちしょうほうこく)
足利尊氏は楠木正成・新田義貞らとの戦に敗れ、九州へと落ちのびました。足利尊氏は九州へ落ちながらもその途中で光厳上皇(こうごんじょうこう)の院宣(いんぜん)を得ます。つまり自分自身も天皇の一族をかついで戦おうと考えたのでした。足利尊氏は九州に落ちのびてから、わずか3か月程度で軍勢をととのえ、京都へ向かって進軍を開始。京都の楠木正成は足利軍とまともに戦っても勝つ見込みがないとして、足利軍を京都に一旦誘い込み、挟撃する策を提案します。ところがたとえ一時であっても京都を敵にあけわたす事をよしとしないなどと、だだをこねた坊門清忠(ぼうもんきよただ)に策を退けられてしまい、もはや自分がこの戦で死ぬ事は避けられないと覚った楠木正成は、従軍していた息子を国元へ返しています。
後醍醐天皇 VS 光厳上皇
坊門清忠 足利尊氏
楠木正成(自害)
新田義貞
楠木正成は兵庫県の湊川での足利軍との激闘の末、死を覚悟し、楠木正成とその弟とは「七度人間に生まれ変わって、朝敵を滅ぼしたい」と語り合ったのち自害します。楠木正成は死する時のこの怨念のゆえに、のちに怨霊となり太平記の世界にふたたび登場するのです。(巻十六・正成兄弟討死)
京都を戦場とした両軍の戦が4ヶ月ほど続いた後、足利尊氏が新田義貞を破り、光厳上皇と共に京都に入ります。戦いに疲れていた後醍醐天皇は足利尊氏と講和を結びますが、後醍醐天皇の持っていた三種の神器は足利尊氏に渡され、後醍醐天皇は捕らえられてしまいます。後醍醐天皇は女装姿で京都から奈良へ脱出し、足利尊氏に渡した三種の神器はにせものであると宣言し、奈良県の吉野で南朝を開きます。(奈良の南朝)
南朝(奈良) VS 北朝(京都)
後醍醐天皇 光厳上皇
新田義貞 足利尊氏
南北朝時代
これ以降約60年間、南朝が北朝に吸収されるまで南北朝時代が続きます。
奈良から京都奪還を夢見ていた後醍醐天皇もついに力つきる時がきました。1339年、後醍醐天皇は崩御の際言葉を残しました。「死に赴く身には、妻子も珍宝も皇位も望むところではない。ただ妄念として残るのは、朝敵を滅ぼして天下を泰平にすることである。たとえ遺骸は南山の苔に埋もれようとも、魂魄は常に北方京都の宮城の天を望んでいようぞ。」京都から南方の奈良の地にあっても、常に心は京都の方向を見つめているという事で、後醍醐天皇のお墓(陵墓)は北を向いて築かれています。足利尊氏は後醍醐天皇の祟りを恐れて、京都嵯峨に天竜寺を造営したという事です。