年度 | 日付 新暦 | 出来事 日本史 | メモ ※1824年のセルに「折り返し禁止」を設定しセル巾を確定させている ※日時は「新暦」で統一している |
1705 | 淀屋闕所 | 淀屋は全国の米相場の基準「米市」を設立し商都大阪の発展に大きく寄与した。多額の大名貸しのあった淀屋は不実商い(現物受け渡しを伴わない)の元凶として闕所(財産没収)所払い、大名たちの借金は棒引きとなりました、幕府は中世ヨーロッパの王侯貴族と同じことをしています。K128 | |
1759 | 蔵志刊行 | 日本最初の人体解剖観察書「蔵志」 山脇東洋著、刊行される。 | |
1796 | ナポレオン 戦争 | 1796~1815年までの「ナポレオン・仏」によって展開された一連の戦争。 “仏は戦後外交路線を対英協調とし、世界第二位の海軍力をもちながら東アジアでの積極的な進出姿勢はなかった。B153 | |
1806 | 文化露寇 | (ぶんかろこう)文化3年、ロシア人が樺太・択捉に来襲、略奪・放火、住民を捕らえて去る。 | |
1824 | 大津浜事件 | 水戸、大津浜(北茨木市)に英の捕鯨船乗組員が上陸。父である幽谷(ゆうこく・水戸学の祖の一人)は藤田東湖(18歳ころ)に異人を暗殺しその後自首せよと命ずるも、英人一行がすでに船で出立していたため未遂に終わる。D13 | |
1837 | モリソン号 事件 | アメリカの商船「モリソン号」をイギリスの軍艦と勘違いし「異国船打払令」に基づき砲撃した。後にモリソン号は日本人漂流民の送還などの目的で来航していた事がわかると、幕府の対応を批判した「高野長英・渡辺崋山」らが捕らえられ処罰された。 | |
1839 | 0904 | アヘン戦争 | イギリスvs清国 “4億ぐらいの人口の巨大な清国が、わずか20隻ぐらいの軍艦を率いるイギリス海軍にいともあっさりと完敗。H260 “米も便乗外交により、戦勝国の英とほぼ同権利を1844年のボウカ条約で獲得した。B29 “日本で武士がリーダーであった事は重要である、ペリーやプチャーチンを見て、日本の侍は日本は勝てないことをただちに理解した。清国や朝鮮において指導者は文官であった。夷狄は夷狄であって許されない存在であり、軍事力という客観的尺度を通じた敵の評価に欠けていた。日本においても朝廷や公家においては夷狄を遠ざけたいという考えは強かった。I42 “清国の敗北に脅えた徳川幕府は1842年に「異国船打払令」を撤廃する。(坂野潤治) |
1850 | 海底ケーブル敷設 | 英仏間のドーバー海峡に海底ケーブルが敷設され、大陸とロンバード街は数時間で証券価格が確認できるようになった。資金調達をしたい国や企業はロンドン金融市場にくれば、その信用に応じて株や債券の買い手がいた。N44 | |
1853 | 黒船来航 神奈川条約 | “ペリー提督以前に日本を訪れたビドル提督は「日本人を刺激しないよう」指示されていた事もあり、対日外交を失敗したとされていた、ペリーの尊大な態度はこの轍をふまぬ決意でもあった。B28 ”独人医師シーボルトはペリーのアドバイザー就任を申し出たが、シーボルトが日本地図を国外に持ち出そうとして日本追放された事や、ロシアとの関係も疑って拒絶した。B31 米の4隻の軍艦が大西洋経由で江戸湾に来航。日本には「大船建造の禁」がありペリー艦隊を迎え撃てるような軍艦は一隻も無かった。幕府の対応の最高責任者は「老中・阿部正弘」。ペリー提督は通商を求める国書を示し徳川幕府は翌年の返答を約束。”黒船を師の「佐久間象山」と共に観察していた「吉田松陰・長州」は「その時にこそ日本刀の切れ味を見せたきものなり」と同士にあてた手紙にしたためている。D17 吉田松陰は再来日したペリーの黒船に小舟で近づき乗船を懇願するも断られ、この密航事件により投獄される。 “阿部は幕府始まって以来、全大名・全旗本・全町民に向け、海防に関する意見書を募集。この時「勝海舟」から提出された意見書が幕府海防掛「大久保一翁」の目に留まり、勝は幕府中枢へと入ってゆきます。H119 ”幕府は開国する勇気もなく責任の分担を計って諸藩に諮問するも、強硬攘夷論が圧倒的に多く、諮問はむしろ失敗に終わった。M112 ”米の最新鋭艦サスケハナが排水量3824トン、当時日本で最大の船が千石船で排水量200トン程度だった。l49 ”開明的だった「阿部正弘」は圧倒的な西洋の武力の前に、勝算もないまま攘夷を言い立てるのは愚かだと見通していました。H22 ”明治維新は西洋の脅威に直面した日本が近代化を遂げなければ独立を維持できないと考えて行った革命であった。I18 ペリーは再来日し1854年3月31日、日米和親条約(神奈川条約)を日本との間に締結。(最恵国条款)この時点では日本側の大反発が予想される通商条約ではない。 ”この時日本側は相撲取りを動員して、米人に負けない体格を誇示した。B31 ”ニューヨークに凱旋したペリーは大統領候補に祭り上げられたりした。B35 【メモ】 「タウンゼント・ハリス・米」 「オールコック・英」 「パークス・英」薩長側に傾く。 「アーネスト・サトウ・英」駐日英国公使でもありパークスの通訳でもある。討幕派。 「ロッシュ・仏」本国の指示を無視して個人外交を展開。佐幕派でありパークスと張り合う。 「トーマス・グラバー・英」武器商人 | |
1856 | アロー戦争 | 清vs英・仏 “清国が英仏の前に敗北を重ねていたという状況は、日本の徳川幕府の意志決定に影響した事は間違いないだろう。I54 | |
1856 | 0821 | ハリス来日 | “ハリスは日本人の混浴の習慣に眉をひそめたという。B83 ”下田奉行がハリスに女を世話するともちかけた、お吉という女は春をひさいでいたが、潔癖症のハリスは3日で返した。B84 ”ハリスの出府を拒否し続けた「阿部正弘・享年39」が1857年病死する。B86 ”ハリスが神奈川で民衆を見た感想を「日本を開国して外国の影響を受けさせることが、日本人の幸福を増進するかどうか疑わしくなる。質素と正直の黄金時代を他の国よりも日本で多く見出す」と綴っている。B86 ”ハリスは徳川幕府との交渉で「日本国内の自由旅行」なども要求したが「それを許容すれば国内反乱が必ず起きる」「外国との戦争は、国内の争乱ほど恐るべきものではない」と返答されたという。B96 |
1858 | 0729 | 日米修好通商条約締結 | “1858年4月25日 京都には攘夷の気分が強く「岩倉具視・公家」らは「日米修好通商条約締結」に抗議し88名が抗議の座り込みを行った、のちに幕府は抗議の当事者の処罰に動いた。I54 「老中首座・堀田正睦・まさよし」は条約調印の勅許を得る事ができず徳川家定からの信頼をなくし、家定は「井伊」を大老に据えた。”「もし戦って敗北し、地を割くなどとなれば、これ以上の国辱はない」「政治を行うものは、期に臨んでは権道をとる必要もある」「権道・けんどう・手段は正しくないが目的は正しいという事」「勅許を得ない重罪は、甘んじて直弼ひとりがこれを受ける決意である」とした。B103 “6月4日、将軍家定の意向などから大老に就任した「井伊直弼・徳川幕府」は勅許を得ずに諸外国と条約を締結。日本側には外国人の裁判権がない、関税自主権もない、極めて不平等な条約であった。T6 英仏は自国民の安全のためとして横浜に軍隊を駐屯させる、外国の軍隊が自国に展開しているという独立国としてありえない状態になる。事実として外国人による強盗・レイプ事件などは頻発していた。T23 条約を締結した徳川幕府へ官民双方から避難が集中する。怒った孝明天皇は井伊の上京を命じるも幕府は拒否。条約調印を京都で知った「孝明天皇」は激し譲位しようとしたが、水戸藩を使うアイデアを進言され攘夷を撤回。以降外国人が開港された都市に増え始める。欧米諸国がこの不平等条約の改正を認めたのは日清、日露の戦いに勝利した後であった。 |
1858 | 8月 | 安政の大獄 | 「大老・井伊直弼」は無勅許の条約調印に反対する者たちを処罰する。”安政の大獄を見た「島津斉彬・薩摩」は兵を率いて京都に出で大勢を挽回しようとするも急死、毒殺の可能性も否定できない。I57 過激な松陰を止めようと高杉晋作らは血判書に連署して訴えるも、松陰は門弟たちに絶交状を突きつける。幕府から尋問を受けていた松陰は自ら「老中間部・まなべ」暗殺計画を暴露し、安政の大獄によって処刑される。自分が死ぬ事で奮起をうながしたとも言われている。松陰は門弟を「君」と敬称で呼んだが、それは「伊藤博文・長州」らを経由して今日の議会に受け継がれている。 “安政の大獄による幕府の憎しみの、最も深くその圧迫の最も強かったのは、水戸藩に対してでありました。M133 |
1858 安政05 | 0914 | 戊午の密勅 | 戊午(ぼご・つちのえうま)井伊大老と対立した孝明天皇が水戸藩に幕政改革を指示する勅書を下す。(水戸藩から諸藩へ密勅の写しを回送せよとの指示あり)「高橋多一郎・水戸」は密勅の写しを江戸から水戸へ届けるも水戸藩首脳は勅を朝廷に返却することに決定する。これを受け高橋は脱藩。水戸は徳川家一族でありながら「大奥」の専横を嫌ったため徳川幕府とは犬猿の仲であった。 |
1859 | 0206 | 西郷潜居 | 薩摩は月照と共に入水した西郷の偽の墓をつくり、本人を幕府から隠すため奄美大島に潜居させる。島で結婚し子を成すも大久保のとりなしで久光公に召喚され1862年2月12日に島を出る。 斉彬・なりあきら : 島津氏28代当主、1858年08月24日(49歳)死去 → 島津忠義 & 島津久光 久光・ひさみつ : 島津氏29代当主、忠義(ただよし)の父、その後見人として権力をふるう。終生和装を通した。父の意に反する事ができない忠義は、憲法発布の際、チョンマゲにモーニングコート姿で出席したと言われる。 |
1860 | 0324 | 桜田門外 の変 | 大老の井伊直弼が「高橋多一郎」ら水戸藩からの脱藩者らに暗殺される。「大久保利通・薩摩」も水戸の同士と合流し挙兵しようとしていたが「島津忠義」に合流するため暗殺計画からは離脱する、「有村治左衛門・薩摩」は暗殺に参加、重傷を負い現場近くで切腹。井伊暗殺犯の浪士は1889年靖国神社に合祀された。なお井伊は靖国神社に合祀されてはいない。井伊の彦根藩では、直弼を守るために戦って死んだ8名は忠臣として称えらえ、家の跡目相続が認められた。重傷を負った者は減知(減俸)、軽傷を負った者は全員切腹が命じられ、無傷で帰ってきた7名は斬首・家名断絶の処罰を受けた。 “大老が暗殺された事で徳川幕府の権威は著しく失墜した。幕府は権威維持をねらって安政の大獄で処刑されたものの名誉を回復するなどした。I61 |
井伊を殺した浪士は義人として英雄視された。彼らを描く錦絵・書籍が刊行された。D178「人間道徳上の最高行為は、自己の利害を離れ、自己を犠牲に供する事である。桜田十八士は、古今の刺客中、最も出色のものであって、志士仁人中の崇高なるものの一である」(桜田義挙録・1911年)D213 戦闘のプロである武士にとって「暗殺」は敵を倒す手段のひとつであり、それほど後ろ暗いものではない。D233 岩倉具視(公家) 脅迫や暗殺未遂 井伊直弼(徳川幕府) 恨みをいだいた「水戸浪士」らに暗殺される 徳川家茂(徳川幕府) 「攘夷」にはやる長州による暗殺未遂 中根市之丞(徳川幕府) 長州「詰問」に遣わされるも長州に暗殺される 大久保利通(薩摩) 「金沢士族」らによって暗殺される(享年47) 森有礼(薩摩) 初代文部大臣、西洋かぶれとして暗殺される(享年41) 吉田松陰(長州) 徳川幕府により処刑される(享年30) 久坂玄瑞(長州) 禁門の変で戦死 中島名左衛門(長州) 長州の砲台を建設後、長州により暗殺される 武市半平太(土佐) 切腹 岡田以蔵(土佐) 打ち首・獄門(享年28) 大隈重信(肥前) 玄洋社員の投じた爆弾によって右足を失う | |||
1860 | 北京条約 | アロー戦争(1856)の結果、清と英仏が結んだ条約。 ロシアは停戦の仲介をしたことを理由に清から「沿海州・現ロシアの都市ウラジオストクなどをふくむ地域」を獲得した。 | |
1861 | アメリカ 南北戦争 | 1861~1865 “武器商人たちは、南北戦争が終わり大量に放出された中古武器を安価で仕入れ、高値で日本の諸藩に売りつけた。B294 | |
1862 | 0211 | 公武合体の動き | 孝明天皇の妹、和宮様が徳川将軍、家茂(14代いえもち)と結婚。 【メモ・徳川将軍】 家定:13代将軍(いえさだ・享年34)病弱で継嗣も長命も期待できず、後継者問題が浮上 家茂:14代将軍(いえもち・享年20) 慶喜:15代将軍(よしのぶ・享年76) |
1862 | 0521 | 寺田屋事件 | 島津久光が公武合体を推進すべく入京するも、これを不服とする過激派薩摩藩士らが寺田屋に集結、これを久光が上意討ちにし「有馬新七」らが死亡、その他藩士らは帰藩謹慎を命じられた。その後久光は勅使を護衛して江戸へ下り「一橋慶喜」「松平春嶽」らを復権させる。天皇の権威を背景に、外様大名が幕府の人事に介入できるという事を世に見せつけた。D57 |
1862 | 目明し 文吉暗殺 | 「安政の大獄」の際、志士捕縛に活躍した文吉が「武市半平太・土佐」の計画のもと「岡田以蔵・土佐」らに暗殺される。あのようなやつを斬るのは刀の汚れであるとして、絞殺され遺骸は裸で三条河原にさらされた。町奉行所の役人は犯人検挙に及び腰で、藩邸内は治外法権であり捜査もできなかった。D71 | |
1862 | 0914 | 生麦事件 | 江戸から薩摩への帰路、武蔵国生麦村で島津公の行列に遭遇したイギリス人を薩摩藩士たちが殺傷した。→ 薩英戦争(1863) |
1862 | 0924 | 松平容保 京都守護職就任 | 会津藩家老の西郷頼母(たのも)は藩財政のひっ迫などから容保の就任に反対したが聞き入れられなかった。 |
1862 | 1114 | 江州石部 事件 | (ごうしゅういしべ・滋賀県)安政の大獄で取り締まる側であった京都町奉行所の役人が次々に暗殺されたため、役人を江戸へ転勤させる事が決まった。これを察知した「武市半平太」は刺客団を送り役人4人や従者を暗殺、その首はさらしものにされた。この事件は幕府権威の失墜を市民に見せつけた。 |
1863 | 長州五傑 留学 | 「井上馨」「伊藤博文」ら5名がマセソン商会、グラバー商会らの協力を得てロンドン大学などに留学した。海外渡航は幕府により禁止されているため5名は脱藩したことになっている。 | |
1863 | 0113 | 英国公使館焼き討ち 事件 | 長州への信頼回復、攘夷実行の督促を目指し、D82 「高杉晋作・長州」「久坂玄瑞」「井上馨」「伊藤博文」らなどが、品川、御殿山に建設中のイギリス公使館を全焼させた。高杉らは「横浜襲撃」をも計画していたが長州藩主「毛利定広」の説得で中止した。放火犯人は捕らえられず迷宮入り。幕府は御殿山を外国人に使用させる事を孝明天皇から反対され困窮していた。 |
1863 | 0409 | 足利木像 梟首事件 | 足利三代木像梟首事件(きょうしゅ・さらし首)天誅という暗殺行為が盛んになり「さしあたって姦物が見当たらない」という状況になった。D93 そこで「朝敵扱い」された足利尊氏の木像の首が盗難され、さらされた。近く上洛する徳川家茂にたいする威嚇である。京都町奉行は捜査に本腰を入れず「京都守護職」により犯人らは捕縛された。犯人らは「平田派国学」の門人であった。犯人らの処分は「寛典・かんてん・寛大な処分」に処された。D97 |
1863 | 0421 | 徳川家茂 上洛 | 徳川将軍家茂(いえもち・18歳)の京都上洛は三代家光以来であり229年ぶりである。孝明天皇は「国事に関しては天皇から直接各大名に命じる事がある」との旨を家茂に伝えるが、これでは徳川家は面目が立たない。天皇は家茂に石清水八幡宮神前で攘夷を誓わせようとするが、家茂は帰京を願い出る、天皇はこれを許さない。長州の過激派は徳川家茂の暗殺を計画する。 「小笠原長行・ながみち・江戸幕府」は京都の尊王攘夷派を一掃するため、もしくは人質状態となった家茂を救出するためか、英から借り入れた2隻をふくむ5隻の船と1600の兵を引き連れて大阪に上陸するも、家茂から中止を指示され上京を断念する。 |
1863 | 0625 | 文久の 打払令 下関戦争 | 【文久の打払令】 徳川家茂は、攘夷実行を旧暦5月10日とする事を奏上。長州の家茂暗殺計画は中止される。5月10日(新暦6月25日)「国土が焦土になっても開港交易は認めない」とする天皇の書簡(宸翰・しんかん)が発せられた。攘夷派は家茂から「打払令」の発令を得る。このような状況下でも徳川幕府は旧暦5月9日「生麦事件」の賠償金支払いを実行した、英側は横浜を軍艦で攻撃する準備をしていたが、賠償金が支払われたため横浜攻撃は行われなかった。 【1863年の戦闘】 “家茂からは「こちらからは手を出すな」という打払令であったが、長州藩は家茂の指示を無視して外国船を次々と攻撃した。I64 「久坂玄瑞・げんずい・長州」らは下関海峡を航行する米・仏・蘭らの艦船を砲撃。この時、朝廷の求める攘夷を武力で実行に移したのは長州藩だけとされる。約半月後には米仏から反撃が加えられるも、長州は小倉藩の一部をも占領し海峡封鎖を続行する。「高杉晋作・長州」は「奇兵隊」を結成、奇兵とは正規軍ではないという意で、百姓・町人らにより組織された。奇兵隊は関門海峡をわたり小倉藩田ノ浦に砲台を築く。小倉藩は江戸に「河野四朗・こうの」を送り、長州の無法を幕府に訴える。幕府は「中根市之丞・幕臣」を長州に遣わしたが、奇兵隊は中根の乗ってきた「朝陽丸・オランダ製」を乗っ取る、混乱のさなか河野は責任を感じ艦内で自刃。船を奪われ江戸へ帰国しようとしていた中根は暗殺される。この中根の暗殺が「孝明天皇」の不興を買った。 “長州は下関海峡を封鎖したため長崎貿易は大打撃をうけ、英米仏蘭の代表は幕府の長州藩制裁を要求する。B295 【1864年の戦闘】8月~9月 英本国は全面戦争となりかねない日本への武力行使に否定的であったにもかかわらず、日本人に攘夷の不可能を思い知らすため、武力を示す必要を感じた「オールコック・英」は長州攻撃を決意。英留学していた「伊藤博文・長州」が帰国しオールコックに面会した後、藩主毛利敬親(よしちか)に止戦を説いたが徒労に終わった。1864年8月17日、17隻からなる四国艦隊の攻撃で長州は惨敗した。戦後長州藩は「幕命に従ったのみ」と主張、四ヶ国に対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。 「中島名左衛門・長崎出身」長州に招かれ雇われる。この時の長州の砲台を建造した人物(1867年07月14日・暗殺される) |
1863 | 0815 | 薩英戦争 | イギリスは徳川幕府から「生麦事件」の賠償金を受取りつつも、薩摩の責任をも追及し薩摩とも交渉、交渉決裂により薩摩との間で戦闘を開始し(薩摩は住民を事前に避難させる)鹿児島の町は焼き払われた。戦争後、薩摩とイギリスは友好関係を深めていった。(薩摩は英から軍艦を購入、英へ留学生を派遣)英本国も和平的解決を望んだという。薩摩の善戦を喜んだ「孝明天皇」は(死者数は英側の方が多かった)薩摩に報償を与えた。 “イギリスを驚かせたのは休戦交渉に現れた薩摩が、ただちにイギリスからの武器の購入を求めたことである。徳川幕府との長々しい交渉・無責任な態度に業をにやしていたイギリスは感銘を受けた。ここにイギリスは徳川幕府支持から薩摩支持へと方針転換していく。I65 |
1863 | 0930 | 八月十八日の政変 | 「文久の政変」とも。会津藩などの勢力が三条実美や長州藩を「勅許」をもって排除した。三条実美らは長州藩へ下向「七卿落ち」。長州は薩摩・会津が仕組んだ陰謀と考えた。 1863年、関門海峡を航行する「長崎丸」が長州から砲撃され、28名が溺死(被害者は薩摩藩)長州は「誤射」と説明。 1864年、周防沖で「加徳丸」が砲撃され大谷仲之進が殺害される。(被害者は薩摩藩御用商人) |
1863 | 塙忠宝 暗殺 | ”盲目の国学者「塙保己一」の息子、忠宝(ただとみ)が暗殺される。天皇の退位を研究しているという事実無根の噂があったというが、志士の間でハクをつけるために必要な暗殺だったのだろうか。H38 犯人は「伊藤博文・長州」だと「渋沢栄一」が伊藤の死後明らかにしたという。 | |
1864 | 0708 | 池田屋事件 | 京都の旅籠、池田屋を京都守護職(会津)配下「新選組」が襲撃。戦闘は2時間にもおよんだと言われ、討幕派を一掃した事から討幕派の恨みを会津が一挙に集める事となる。 |
1864 | 0820 | 禁門の変 | 「蛤御門の変」とも。長州藩勢力が会津藩勢力の排除を目指し挙兵するも薩摩藩の応援で長州藩は敗北。「久坂玄瑞・長州」が死亡。孝明天皇は長州藩主父子から官位を奪い、朝敵として幕府に長州征伐を命じる。D127 |
1864 | 第一次 長州征伐 | ”江戸時代という平和な時代は軍事技術を衰退させた。長州征伐に従った譜代大名の家臣は、大阪夏の陣(1615年)とほとんど同じ武器を携えていたという。I39 幕府は 「井上馨・長州」は征長軍との決戦も辞さないかまえだったが、襲撃されひん死の重傷を負い(犯人は長州藩士)井上不在の中「恭順謝罪」が藩の大勢となる。征長軍参謀「西郷隆盛・薩摩」は平和的解決を徳川幕府に進言、戦闘が行われることなく、長州藩は三家老切腹などをもって決着。「恭順」を不服とする「高杉晋作・山形有朋・伊藤博文(長州)」が下関で挙兵し藩内戦が勃発。中山忠光(ただみつ・明治天皇の叔父)は「天誅組」の騒動の後、長州藩にかくまわれていたが、長州が幕府に対して恭順ムードとなる中で暗殺される、享年20。 | |
1866 | 0720 | 徳川家茂 死去 | 徳川家茂が大阪城で脚気で死去(満20歳)徳川慶喜(よしのぶ・29歳・15代)が将軍に即位。大阪に出陣中の家茂の死去で「第二次長州征伐」は休戦となる。 ”第二次長州征伐の和解交渉には「勝海舟」があたりましたが、その結果に不満であった慶喜は勝をクビにしてしまいます。昔から慶喜と勝は性格的に合わないのです。H81 |
1866 | 薩長同盟 | “当時長州は孤立無援の窮地、薩摩は幕府側ですから長州の薩摩に対する不信感は尋常ではありません。この感情のこじれを修復するために「坂本龍馬・土佐」は海援隊を使って薩摩の金で長州に軍艦と武器を供給します。理屈ではなくいわば実弾を用いたところが、竜馬の本領と言えるでしょう。H192 | |
1866 | 第二次 長州征伐 | “いったんは幕府に対して恭順をしめした長州では、高杉晋作の藩内戦などを経て「武備恭順」を藩論とする。I70 薩摩は第二次長州征伐には参加しなかった。第二次長州征伐に失敗した幕府の権威は地に落ちた。 | |
1866 | 丙寅教獄 | (へいいんきょうごく)李氏朝鮮王朝(韓国)は朝鮮においてキリスト教徒を弾圧しフランス人宣教師やキリスト教に改宗していた住民など1万人以上が犠牲になったという。仏は軍艦7隻をもって江華島を攻撃・占領するも後に韓国から撤退する。”仏・米の攻撃をしりぞけ、攘夷の成功で意気あがる朝鮮は日本からの国交樹立の求めに応じず、日本人が洋服を着ている事を非難した。I150 | |
1867 | パリ万博 | 日本からは徳川幕府・薩摩藩・佐賀藩が出展。薩摩藩は幕府とは別区画で「日本薩摩太守政府」の名で出展し幕府と対立する。”「ロッシュ・仏」は「徳川の権力は略奪したものであり徳川の位は薩摩と同じ大名である、日本には御門のほか主君たるものはない」という説を、薩摩が新聞に流していると徳川慶喜に報告し、幕府の権威を高めるような記事を作成しパリとロンドンの代表的な新聞に掲載すべきと進言した。B167 | |
1867 | 0130 | 孝明天皇 崩御 | 36歳での崩御という事から「毒殺説」がある。 “歴史的には一切証明されていませんが、長州による毒殺と見ております。公武合体論者の天皇は倒幕勢力にとっては邪魔な存在だったのです。H69 ”討幕派からすると公武合体し「徳川慶喜」が共和政治のトップになると、これまでの300年と同じことの繰り返しです。H71 ”孝明天皇自身は徳川家に対してきわめて厚い信頼を抱いていた。H27 |
1867 | 0213 | 明治天皇 即位 | 「明治天皇」16歳でのご即位。明治政府は憲法上「天皇に権力を集中」させておきながらその実は天皇ご自身に何の発言権もない、天皇を囲い込んでいる者達が日本を好きに動かす事ができるシステムでした。T189 ”「伊藤博文・長州」は天皇について語りながら、身振りで操り人形のしぐさをしてみせた、とドイツ人医師ベルツの日記に記載がある。T195 ”「木戸孝允・長州」が書いた手紙の中には「その期に先んじてうまく玉を我が方へ抱き奉り候、万々一にもかの手に奪われて候いては、芝居大崩れと相成り、三藩の滅亡は申すに及ばず」とあり、天皇も倒幕のための駒にすぎないという意識がうかがえます。H26 |
1867 | 1109 | 倒幕の密勅 | 薩摩藩と長州藩に秘密裏に下された、徳川慶喜討伐の綸旨。「西郷隆盛・薩摩」は徳川幕府の武力討伐を考えており「維新後」の政治に「徳川家」を加えるつもりは無かった。 |
1867 | 1109 | 大政奉還 | 土佐藩主「山内容堂」による建白書を徳川慶喜が採用。二条城で慶喜が政権返上を明治天皇に奏上。これにより倒幕が一時中断される状況となり、徳川家は天皇による親政開始までは暫定的に権力を持つと思われた。薩長に先んじようとした。 慶喜の大政奉還には身内である徳川一門、会津藩、桑名藩からの激しい反発があった。D153 |
1868 | 0103 | 王政復古の大号令 | 王政復古のクーデターにより慶喜は敗れた。明治天皇より勅令が発せられ徳川慶喜の辞官・納地が「子御所会議」にて決定する。”クーデターの5日後、ロッシュとパークスは「自分こそが先に慶喜に謁見する」と互いにののしりあいながら、結局はふたり一緒に大阪城の慶喜に謁見する。B176 ”ロッシュは最後の最後まで慶喜に戦う事を進めたが「予は死すとも天子には反抗せず」と断言された。B183 |
1868 | 薩摩藩邸 焼討事件 | 江戸の薩摩藩江戸藩邸が庄内藩によって襲撃され焼失する。 | |
1868 | 0127 | 戊辰戦争 | (ぼしん・その年の干支がぼしん)薩摩・長州 VS 徳川幕府・奥羽越列藩同盟らの戦争。 薩長5000人VS幕府15000人と幕府側有利も「錦旗」を見た慶喜は部下を戦場に残したまま江戸へと逃げ帰る。 鳥羽伏見の戦いがその初戦。この時の錦旗は「岩倉具視・公家」の依頼で「大久保利通・薩摩」らが制作。(品川書簡・朝日新聞)”偽物の錦旗を掲げる新政府と錦旗を見ただけで恐れおののく徳川、本当の勤王はどちらでしょうか?T193 ”新政府は会津藩主松平容保を「死罪」とする方針で「仙台藩」に会津征討を命じる、仙台藩は王政復古によって長州藩は許されたのに会津藩は許されないというのは、薩長の私怨ではないか?と会津救援に乗り出す。「錦旗」の前にただちにひれ伏した西国大名達とは違っていた。D171 ”戊辰戦争全体を通じて藩主で死刑となったものはいない。取り潰しも会津藩・請西藩(じょうざいはん)のみであり、天皇の慈悲を強調するとともに政治的安定へも配慮されている。「木戸孝允・長州」は書簡に「浪人が沢山出ても困る」と残している。I93 |
1868 | 0503 | 江戸城 明け渡し | 「勝海舟・幕臣」は薩摩の後ろ盾イギリス、横浜のパークス公使に面談し、江戸を火攻めにする作戦などをつつみ隠さずに話しました。この翌日西郷さんはパークスに呼ばれてあっています。H104 英側から戦争を反対されたことも西郷さんに江戸攻撃をためらわせたでしょう、横浜にいた英のパークス公使は「万国公法を無視した戦争」と西郷側に答えました。西郷は西軍会議において「慶喜の死一等を免ずるべき」と主張しました。H98 江戸は「東京」と改称され、明治天皇が東京入りする。 ”徳川家は「徳川家達・いえさと」の相続が認められ70万石の大名となった。敗れた旧政権のトップがこのような形で生き残ったのは、世界でも類を見ない。D171 |
1868 | 1106 | 会津藩降伏 | 会津は斗南藩(青森県)へと転封、藩士4700名余りが移住。会津攻略の主将「板垣退助・土佐」は海外諸国との対峙を見据え、会津への寛大な処置をとる。容保は死一等を減じられ家老の萱野(かやの)が切腹。戦争末期、会津・庄内藩は蝦夷地のプロセインへの売却を計画するも未達。 |
1869 | “大久保はそれまで議定・参与で30人もいた政府幹部を参議4人に絞り、その下に6省を置いてそれぞれのトップに自分の息がかかった人物を配置しました。H46 | ||
1869 明治02 | 版籍奉還 | “廃藩置県の先駆としての版籍奉還、幕府を倒しても諸侯がなお土地人民を私有していては、真に維新の目的が達成されたと云われない、木戸は毛利敬親に、大久保は島津忠義に説き、四大藩主連署の版籍奉還の上表ができあがった。KK12 (上表:君主に文章を奉ること) “翌年1870年「横山安武・薩摩・森有礼の兄」が明治政府の悪政を批判し切腹、諌死した。(享年28)西郷は横山を激賞し、後年その碑文を書いて弔った。KK16 | |
1870 | 普仏戦争 | ||
1870 | 越後一揆 | 越後で86カ村農民1万人が秋葉山に集結し役人や富商を襲撃する。幕府の開国政策で米・麦・生糸・お茶らが盛んに輸出されたちまち価格が高騰した。H21 | |
1871 | 西郷参議へ復職 | 西郷の弟子が抗議の割腹自殺をするなど、維新で失職した不平士族を束ねる事のできる西郷が薩摩にある事を政府中枢は恐れたとも言われる。薩摩へ帰郷していた西郷隆盛が参議として復職し、陸軍大将・近衛都督を兼務する。 “三藩献兵によって中央直轄の軍隊を作り、これを西郷が率いることで初めて廃藩置県は可能となった。I114 “明治天皇が地方巡行で長崎滞在中、ある県民が建白書を奉り、洋装をやめるように願い出た。西郷はこの者を引見し「汝未だ世界の大勢を知らざるか」と大喝したところ、恐懼して退いたという。西郷が洋装にはコミットしていたことはうなづける。I108 | |
日本の「留守政府」は12箇条の約定を破り、当初、薩長土肥各1名であった参議が薩1土2肥3という肥前(佐賀)の「大隈重信・江藤新平」らによって政局は動いていた → 藩閥政治 | |||
1871 | 0829 | 廃藩置県 | “木戸・大久保らに廃藩実施の手順さえついておれば、その上のことは拙者全部引き受ける。暴動が各地に起きても、必ず鎮圧してお目にかけましょう、と西郷は述べた。西郷に対して廃藩置県などやるな、とダメを押した久光は廃藩令の薩摩に伝わるや、花火をあげて不平を爆発させたという。KK27 西郷は旧主人「島津久光公」をわび状を持って訪れたという。 “1872年、明治天皇は地方巡幸にて鹿児島入りする。島津久光は明治天皇と対面し、西洋化に反対し、大久保・西郷を罷免するよう求めた。I108 ”大久保らからすると西郷は一種のロボットであり、廃藩置県の大仕事が済んでしまえばもう必要としないのである。KK28 |
1871 | 0913 | 日清修好 条規 | 日本は清国との貿易を求め国交樹立した。 “西欧列強はこの条規について、日清が提携して西洋に対抗しようとするものだと考えた。I153 |
1871 | 1223 | 岩倉使節団 | “使節団の目的は翌年に控えた諸外国との不平等通商条約改正のための下準備。T6 岩倉らはいざアメリカに到着すると「条約改正の本交渉」を始めますが、英と独の駐日公使がやってきて岩倉らに「片務的最恵国待遇」について指摘します。日本はこのときまでこの条項の意味すら理解しておらず、本交渉は中止されました。このような一方的に日本に不利な条項があれば下準備もなにもあったものではありません。岩倉は「この先は厚顔無恥にて世界を回るだけ」と日記に記しています。T54 当初の使節団の日程は10カ月を予定。大久保の一時帰国(勅許取得)などで遅延。岩倉、大久保、木戸ら日本のトップ3が10カ月もの間、国を空けるというのは通信手段のない当時尋常ではない。T25 使節団には駐日アメリカ公使「チャールズ・デ・ロング」が同行。T47 岩倉らの帰国後キリスト教が解禁される。T65 岩倉は尊攘派から「三奸」のひとりに数えられ、屋敷内に切り取られた「腕」を持ち込まれるなど脅迫にもあっていた。D89 岩倉一行は政治と政商がタッグを組むと巨大な資金が集まり、インフラが整うことをその目で見た。T109 アメリカで政官財が一体となって富裕層を形作っていることを見ます。T122 現在の日本は民主主義ですが、明治期は天皇を頂点とする王国です。T141 【使節団構想】 ”を最初に考えたのはアメリカ人宣教師「フルベッキ・明治政府顧問」各国で誰に会い、何を見るべきかまで具体的に提案されていた。フルベッキは佐賀・長崎で英語の教鞭を執りその時の生徒は「大隈重信・肥前・総理大臣」大久保利通、伊藤博文など。T28 大隈が自分を大使とする使節を発議し承認されるも、自身も洋行の希望を持っていた岩倉に取って代わられる。おさまらない大隈は「鬼の留守に洗濯・大隈伯昔日譚」と薩長閥の人間を使節団に送り込み、使節団が100人以上となる、日本国内の政争が一掃され「地租改正・国民の学制・徴兵制」などの国内改革が一気に進む。明治の元勲たちは政治には向いていなかった、どこまでいっても「戦争屋」だったのではないか。T57 ”新政府の中心メンバーが視察中の間、西郷はその剛腕で「松平容保・榎本武揚」など賊軍の将たちの赦免を断行。H127 【その道中】 使節団を迎えたのは、国家のトップ・資産家・王族らです、王族コミュニティの世界の頂点の贅沢な暮らしの中に1年10カ月もいたのです。使節団の意義とはこの巨大な富の体感です。T81 岩倉たちの前にいた王族たちこそが世界の支配者であり、日本の外債を買ってくれている金主なのです、岩倉たちが知らなけらばいけなかったのは、こういった金融システムです。使節団はセイロン島でアヘンを積み込むイギリス人や、スマトラ島での現地人の反乱も目にしました。富の体感と搾取の実態、この2つを実際に見聞きした事が大きいのです。T91 プロシアのビスマルクは大久保らに「万国公法など守る必要はない、あれはイギリス・フランスなどの強国のための法律で、強国は自分たちが不利になれば、簡単に万国公法を無視する。本当の国際法は力だ」と語ります。富国強兵、強くなければ不平等条約も改正されない、だから明治政府は自分たちに富と権力を集中させる階級社会をつくっていったのです。その反動として、国内の戦争・反乱・市民の動乱が多かったのです。T97 【帰国後】 教科書の解説「西洋の文化を目の当たりにして西洋化が進んだ」などというのは岩倉たちをバカにしています。不平等条約に縛られ西洋人にコケにされている中でなんとか巻き返しを図ろうとしている人たちです。国を富ませるには誰かに泣いてもらわなければなりませんし、岩倉たちが見てきた世界の現実はそうでした。泣くのは自分たちではなく庶民です。大久保と伊藤は貴族階級をつくり、財閥をつくりました。大久保は三井家を、伊藤は岩崎家をバックアップしました。すべてはOrderのためなのです。(Orderは騎士団と誤訳されているが「秩序or結社」と訳すべき T183)T186 “大久保の人生は使節団の前後で2つに分かれると言われるほど、その変化は大きかった。当時42歳の大久保に「もう時勢に応じられないから身を引く」との弱音を吐かしめるほど、欧米との文化的ギャップは大きかった。I142 |
1872 | 富岡製糸場 | 近代化のために何よりも必要なものは輸出による外貨獲得であった。政府は外国資本を入れず官営工場を作る事を決定。仏の協力を求め世界最大級の工場が完成した。 | |
1872 明治05 | マリア・ルース号事件 | 横浜港に停泊中のペルー船から脱出した清国人は救助を求めた。これを「奴隷」であるとして日本政府が解放した事件。外務卿「副島種臣・そえじまたねおみ」は人道主義と日本の主権独立を主張。裁判を経て清国人は解放され帰国した。 | |
1873 明治06 | 0101 | 太陽暦の 採用 | 「太陽暦・グレゴリオ暦」が日本で採用される。 |
1873 明治06 | 明治六年 政変 征韓論 | 岩倉・大久保不在の「留守政府」では「征韓」が閣議決定していた。 “先に帰朝していた大久保は極力西郷を避け、岩倉が帰朝するやこれと協力して「征韓論」を叩きつぶした。KK43 「征韓論」が岩倉・大久保らによって退けられ、西郷・板垣・江藤ら5名が参議を辞職。翌年岩倉は襲撃を受けるも濠に滑り落ちたため刺客に発見されず、窮地を脱した。 当時、大隈と大木は大久保派になっていた、大久保は征韓論を利用し政敵を追いやった。「明治六年政変」T60 | |
1874 | 台湾出兵 | 台湾原住民による日本人漂流民虐殺事件(宮古島島民)がそのきっかけ。木戸は「征韓論を否定しながら台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾である」として参議の職を辞してしまった。出兵への反対意見のある中 ”大久保の制止をふりきって西郷従道が出兵を強行した。I198 台湾出兵への補給は「三菱」がになう。”大久保は三菱を保護し政府の船を下げ渡すなどして支援し、三菱は外国との競争に打ち勝ち上海航路まで制圧するようになった。公平でなく問題の多い政策だったが、西洋と対抗するためには日本でもっとも能力あるものを支援するしかなかった。I199 | |
1876 | 廃刀令 | “かつて明治2年に「森有礼」が廃刀を取り上げた際には全会一致で否決され辞職を余儀なくされたというが、何年か時間をかけて徐々に武士の刀剣に対するこだわりは弱まっていた。I121 | |
1876 | 萩の乱 | 同年8月、士族に対する「秩禄処分」がほぼ完成したと言われる。 「前原一誠・まえばらいっせい・長州・山口県士族」らによる明治政府に対する士族反乱。 | |
1877 | 0129 | 西南戦争 | “殊に西郷を怒らせたのは刺客を向けた事だろう。政府としては単なるスパイのつもりが、これがいつしか暗殺者と言われることになり、これが西郷の耳に入って嚇怒させたのだろう。KK66 不平士族らは西郷に決起をうながすも西郷は固辞し続けていた。明治政府は鹿児島県にある陸軍の武器弾薬を大阪へ移す計画を実行。「山形有朋・乃木希典」が明治政府軍として薩軍と戦う。会津藩家老として東京で謹慎していた「佐川官兵衛・鬼佐川」が明治政府軍として参戦、戦死(享年47) ”「アーネスト・サトウ」の日記には「鹿児島県令・大山綱良」などが口にしていた楽観論が書きとめられています「政府軍は西郷の進撃に恐れをなし、なんの抵抗も試みないだろう」「熊本鎮台の樺山資紀は薩摩出身であることが、大いにあてにされている」H53 |
1878 | 0514 | 大久保暗殺 | 「大久保利通・薩摩」が石川県士族「島田一郎・金沢」(西郷下野に憤慨していたという)らに暗殺される。(享年47) “公儀、輿論など亡国的俗説だ。薩長専横と云わば云え、今日において薩長の実力に依らないで何が出来るか。(大久保・妄議より)KK21 |
1881 明治14 | 明治十四年の政変 | “「黒田清隆・薩摩」は1400万円費やした開拓使の事業を30万円で自分の部下などに払い下げようとする。黒田は官有物払い下げの朝議の遅々とした進行に怒り、燭台を取ってほうりなげた、恐れた三条は直ちにこれを決定すべき処置を講じ、天皇からの許可を得た。これに政府弾劾の声が起こり、大隈はこれに便乗、三菱会社、福沢諭吉門下らと結び廟堂の権力を握ろうとした。KK85 ”しかしこれを政治家の不正とばかり見るのは当たらぬと思う、政府の産業政策は官営から民営に代わり、黒田はもとよりこの変更に順応したまでで、政商との関係は今さら問題とされるもでもない。この問題をたたけば誰だってホコリが出た時代である。KK86 ”このころの国民生活は悪性インフレで生活が困窮、この問題を大きく見ないではいられなかった。K88 「大隈重信・肥前・参議」「前島密」「犬養毅」「尾崎行雄」などがその職を免ぜられた。結果、薩長の勢力はより強力になったが、自由民権の声は全国をおおい、政党論者は反撃の態勢に出たのである。KK84 ”明治16年、岩倉は臨終に際しその実子を大隈邸に遣わし、病床において大隈に詫びを言って死んだという。KK96 明治政府は、1890年を期して国会を開設すると明らかにして、事態の収拾を図りました。 “欧米の民権論は政府攻撃が王室攻撃に向かうのであるが、わが国の民権論は藩閥政治を容赦なく叩いたが、皇室に対しては全く柔順忠篤であったことは、外国のそれと比べてその著しい特色である。KK106 | |
1882 | 0406 | 板垣遭難 | 「自由民権運動は天皇に異心を抱くもの」といった政府のプロパガンダに乗せられた「相原尚ふみ」に「板垣退助・土佐」が短刀で襲われるも命に別状は無かった。板垣は4度ほど暗殺未遂に遭っている。 |
1885 | 内閣制度 | “初代内閣総理大臣に「伊藤博文・長州」が就任。足軽の子であり江戸時代では政治について発言することすら許されない身分の出であった。I14 | |
1889 | 0211 | 大日本帝国憲法発布 | 1882年、伊藤は先進国の制度を調査するため欧州に出発。 “伊藤が専心研究の対象としたのはドイツ・プロシヤであった。一国の憲法は一国独自の国体、歴史に基づくべきと力説し、イギリス風の政党内閣は君権を危うくすると固く信ずるに至ったのである。KK136 ”英国風なら「王は王位あるも統治せず」で、これでは王政復古は無意味である。そこで日本では「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と独自の国体に基づいて書いているのである。KK140 |
1889 | 0212 | 森有礼暗殺 | 初代文部大臣「森有礼・ありのり・薩摩」が「西洋かぶれの森が伊勢神宮で不敬を働いた」との風説を真に受けた西野文太郎に殺害される。西野はその場で惨殺。政府による急激な欧化政策への反発から、西野の墓へは墓参者が列を成す。D226 森は国語を「英語」にすべきだと主張した事がある。T152 |
1889 | 1018 | 大隈遭難 | 外務大臣「大隈重信・肥前」が玄洋社員「来島恒喜」によって投じられた爆弾によって右足を失う。大隈は来島の葬儀に仏前を贈り来島を赤穂義士に例えた。D227 |
1894 | 日清戦争 | ||
1898 | 高橋是清 海外出張 | 当時、横浜正金銀行副頭取であった「高橋是清」に「井上馨・大蔵大臣」はポンド建て外債募集の可能性について極秘で探るよう命令を出した。N37 | |
1900 | 居留地廃止 | 日本ではこの年、条約改正により居留地が廃止された。 国内の一部を限って、外国人の居住・営業のために指定した地域。 | |
1904 明治37 | 0208 | 日露戦争 | 参謀総長「山形有朋・長州」 “世界の批評家と呼ばれた英新聞「タイムズ」側とも「深井英五」は良好な関係を築いておりこのことが後に日本にとって大きなアドバンテージとなる。N45 日露戦争において「金子健太郎」の米国における国家宣伝活動や「高橋是清」による戦費調達の貢献度は陸海軍の戦功にも劣らないものがあります。K156 |
1919 | 0525 | 大逆事件 | 長野県の社会主義者「宮下太吉」が爆発物取締罰則違反容疑で逮捕され、明治天皇暗殺計画が露見する。「幸徳秋水・しゅうすい」ら24名に死刑判決。警察や政府によるでっち上げ捜査であり、幸徳へは「冤罪」の可能性が指摘されている。 |
1921 | 中島久万吉 | 商工大臣・中島の「足利尊氏を再評価すべき」との文章が「逆賊足利を礼賛する」と批判され、辞職に追い込まれた。 | |
1936 | 2・26事件 | 「元大蔵大臣・高橋是清」が暗殺される。 | |
1945 | 0902 | GHQの 日本占領 | 1952年4月28日まで(約7年)GHQが「東京地検特捜部・裁判員裁判・国税庁」をつくる。米の勢力によりNHKと日本テレビがつくられる、日本テレビの創業者「正力松太郎」はCIAのエージェントだった事が判明。T4 |
1960 | 0714 | 岸信介 襲撃事件 | 総理大臣「岸信介・山口」が右翼団体に属する荒牧退助に刺され重傷。作家、三島由紀夫は「少なくとも一部の政治家には、かういふ事件がいい薬になろうし、政治が命がけの仕事となれば、少しは政治家の背骨もシヤキリとするだろう、ということも考えられる」と述べている。D235 |
1975 | G7 首脳会議 | 日本は同じ敗戦国である西ドイツとともにその主要メンバーとなりました。K225 | |
1985 | プラザ合意 | ||
出典 | B D K KK H I M N T | 小島英記(こじまひでき) 幕末維新を動かした8人の外国人 一坂太郎著(いちさか) 暗殺の幕末維新史 板谷敏彦著(いたやとしひこ) 金融の世界史 菊池寛(きくちかん) 「復刻版」大衆明治史 1943年・2022年 半藤一利(はんどうかずとし) もう一つの「幕末史」 北岡伸一(きたおかしんいち) 明治維新の意味 平泉澄(ひらいずみきよし) 物語日本史(下) 板谷敏彦著(いたやとしひこ) 日露戦争、資金調達の戦い 2012年 苫米地英人著(とまべちひでと) 明治維新という名の秘密結社 |
年度 | 日付 新暦 | 出来事 金融 | メモ ※1602年のセルに「折り返し禁止」を設定しセル巾を確定させている |
1602 | 世界初近代 的株式会社 | オランダ東インド会社はその株主を有限責任とし、出資額以上には失わないという性質によって、その株は盛んに取引されたのです。K92 | |
1803 | “「ナポレオン・仏」は英との戦争の資金調達のためルイジアナを米に売却、米はその購入代金を債券発行によってまかなったが、その債権の売却を行ったのは英のベアリング商会であった。N49 | ||
1844 | 英が金本位 制度採用 | “これにならいヨーロッパ各国は金本位制度を次々と導入した。N33 | |
1886 | 南ア 金山発見 | “南アフリカで大規模な金山が発見され、世の中に出回る金の量が増え始めた(金本位制度)N35 | |
1897 | 金本位制 採用 | “露と日本は同じ年に金本位制を採用、これは先進国の証であり、国際資本市場で資金調達するための基本条件でした。K156 ”この当時金本位制を採用していない国は為替が不安定なために外国からの資金調達は困難であった N36 | |
1900 | GDP | “当時のロシアのGDPと人口は日本の3倍の水準だった。国民1人あたりのGDPでは日露であまり差は無かった。ロシアは欧州の中では後性が指摘されていた。貧しいロシアが恐れられていたのはその人口を背景にした陸軍兵力からであった。N30 | |
1929 | 1024 | ウォール街 大暴落 | ダウ工業株価指数が3年間で約10分の1にまで下落。チャップリンは失業者の多さへの不信から大暴落の前年に持株をすべて処分していた。K169 |
1933 | グラス・ス ティーガル法 | (米)大恐慌の経験に基づく対処策として、銀行業と証券業の分離を決定。銀行持株会社による他の金融機関の所有を禁止。この銀証分離の法律がこの後のウォール街を支配し、日本の戦後の金融行政にも影響を及ぼすことになりました。K175 その教訓は忘れ去られ(1999)グラム・リーチ・ブライリー法によって撤廃されてしまいます。K176 | |
1944 | ブレントン ウッズ体制 | 米国ブレントンウッズホテルに連合国代表が集まり決められた、米国を中心に作られたメカニズム。 | |
1971 | 0815 | ニクソン ショック | これにより米の黄金の60年代は完全に終焉を迎えました。K217 西ドイツと日本からの輸入超過によって金がアメリカ国外に流出するため、ドルと金の兌換を停止すると発表したのです。K217(ブレントン・ウッズ体制の崩壊の始まり) |
1972 | 資本取引 自由化 | (この年以前からの動き)メリルリンチへ外国証券会社初の証券業免許の付与、資本取引自由化は外国企業による日本企業の乗っ取りも可能にするため上場企業は安定株主工作・株式の持ち合いで対抗した。 | |
1980 | 日本輸出超過国へ | 1955年、米に27社あったテレビメーカーは日本メーカーの輸出におされて、ゼニス社1社になってしまった。K225 | |
1985 | プラザ合意 | G5によるドル売り協調介入によって管理された状態でドル安・円高の状況を作り出し、日本の輸出超過を修正することが決められました。日本は日本にとって不利な政策を受け入れました。K226 | |
2008 | リーマン ショック | グラス・スティーガル法が撤廃された、その結果の一つが、リーマン・ショックでした。K176 | |
2011 | 1031 | 過去最大の 円高 | 1ドル=75円を記録 |
出典 | K N | 板谷敏彦著(いたやとしひこ) 金融の世界史 板谷敏彦著(いたやとしひこ) 日露戦争、資金調達の戦い 2012 |